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現段階において、日本に正確にいつ野球が伝わって、プレーが行われたのかは定かではない。その理由は、野球伝来において様々な説があり、どれもはっきりとした論拠がないからである。ここではいくつかの説を挙げて、考えていきたいと思う。
<1、明治五年、第一番中学校説> 昭和46年、ベースボール・マガジン社から君島一郎氏(注1)の『日米野球創世記』という著書が出されているが、その中で君島氏はこの説をとっている。この説の論拠は明治29年7月23日の日本新聞に「野球の来歴」という題名で掲載された投書で、好球生というペンネームで書かれている。以下にその文を挙げておく。
「−(前略)−そもそもベースボールのはじまりは明治五年の頃なりし。今の高等商業学校の 処に南校という学校あり。明治五年頃は第一大学区第一番中学と名付けて唯一の洋学校 なりしが、英語、歴史などを教うるウィルソン(注2)と云える米国人あり、この人常に球戯を 好み、体操場に出てはバツトを持ちて球を打ち、余輩に之を取らせて無上の楽しみとせ しが、ようやくこの仲間に入る学生も増加し、明治六年第一番中学の開成学校と改称し、 今の錦町三丁目に広壮の校舎建築成り、開校式には行幸などもあり、運動場も天覧ありし 位にて広々と出来たりし事故、以前に変わりて体操の方法も拡張し来り、−(中略)−この 頃よりいつとなく余輩の球戯も上達し打球は中空をかすめて運動場の辺隅より構外へ出 るほどの勢を示せしが、ついには本式にベースを置き組を分かちてベースボールの技を 始むるに至れり。されで初めの事とて其業の見るべきほどの事なかりしが、明治も、八年 に至りては非常に発達し、ついに或人の照会によりて横浜の米国人と試合を為したる事 たびたびなりし。八,九年の頃は校内ごと土曜日には球技盛んに流行し、見物人も山をな して戦う時などは非常の人気なりし。この頃高等学校と米国人の試合ありたるを見て懐旧 の情に堪えず。−(後略)」 (現代かな遣いに改めた)
この投書は二日前の7月23日の「松羅玉液」の欄の執筆者正岡子規(1867−1902)が、有名な野球解説記事を掲げ「ベースボールの伝来は明治十四、十五年頃で、鉄道局の技師平岡煕(ひらおか ひろし1856−1934)が米国より持ちかえって新橋鉄道局で初めて試みた」という説に、反論するかたちでかかれたものであった。 子規はこの投書の末尾に文章を付して好球生の主張を認め、自分の説は「おぼろげなる伝聞」によったものだとして、あっさり撤回している。また、ここに出てくる第一番中学、南校、開成学校はのちの東京帝国大学あるいは東京大学となる。
<2、明治六年、開成学校説> <1>の説と場所は同じで開成学校で、<1>とは一年違いの明治六年伝来説というのがある。この説は、大正に入って大阪朝日新聞が野球に力を入れ中学の野球大会を大正四年にはじめて主催し、その翌年から『朝日野球年間』を発刊するに至るが、その第一号の中の日本野球史の冒頭にはじめて出てくる説である。大正五年までの野球史を、(1)混沌時代(明治六〜二十年)、(2)一高時代(明治二十〜三十六年)、(3)早慶時代(明治三十七〜大正五年)と三つに区分したあと、 [まず混沌時代を紹介すると、明治六年の頃、今の帝国大学が開成学校と云って東京一つ橋外高等学校の前に置かれた時分、其教師にウィルソンン及び同予備門のマジェット (注3)と云う二米人があって、初めて野球なるものを同校の学生に教えた。これが恐らく我国の空中に野球のボールが飛ばされたイの一番であろう。−(後略)−。」
この説は、三十年後、昭和二十四年に発刊された『野球大観』に引き継がれ、木村毅(1951−?)氏の名著『日本スポーツ文化』(昭和三十一年刊)もこの説をとっていて、最も普及した。
<3、明治六年開拓使仮学校説> <2>の開成学校説に対して、現在の北海道の前身の札幌農学校のそのまた前身で、当時、東京・芝の増上寺内にあった開拓使仮学校伝来説というのがある。この節は比較的新しく、大島正満著(1884−1905)の『水産界のの先駆者伊藤一隆と内村鑑三』(明治三十九年)という書物があって、以下のように書かれている。 「米国帰りの牧野伸顕伯などが開成学校へ野球を持ち込んだのは明治七年の頃というが、 開拓使仮学校生徒間に野球が行われたのは、開校後間もない明治六年頃とのことであるか ら、この方が日米野球史の第一頁と申してもよいのではあるまいか。当時何事も器用で敏捷 な伊藤一隆(注4)は、同校で組織された野球チームの選手であった。本人が物語った当時 の状況を次に書き記してみよう。 「明治六年頃、大蔵省の雇われであった米人ウィリアム氏の甥のベーツ氏(Alert.G.Bat ‐es)が開拓使仮学校の英語教師に雇われていたが、この二人が野球の熱心家で本国から 持参した一本のバットと三個のボールとを大切にしていた。ところが相手がいないのでど うすることもできず、仕方がないので、仮学校の生徒達にゲームの方法を教え、彼等の間 で二つのチームを組織させ、毎日放課後に校庭で対戦させてベーツ氏自らが審判官を つとめていたが、面倒な野球ルールを英語がまだよくわからない少年達に会得させようと いうのであるから、ベーツ氏の苦心は一通りのものではなかった。」 ここでも開成学校と同じように、米国人教師が生徒に野球を教え、これに留学生が帰朝して加わるという形の伝来が行われていたのである。仮学校説は昭和七年刊の『日米野球戦史』で横井春野氏(注5)が紹介しているが、この学校が間もなく札幌へ移り、野球もしばらく途絶えてしまったことや、中央球界から遠く離れているために開成学校説に比べて人に注目されなかった。
<4、その他> この他に、明治四年九月から同九年九月まで、米国のジェインズ大尉(Leroy Lansing.Jan‐es1838−1909)を教師として開かれた、熊本洋学校説がある。しかし特にこれは、はっきりとした根拠がなく憶測の域を出ていない。
<注>1、君島一郎 朝鮮銀行副総裁 2、ウィルソン(Horace E.Wilson1843−?)アメリカ人教師。大学南校、東京開成学校で英語などを教える。 3、マジェット(Edward Hutchinson.Mudgett1852−1910)アメリカ人。 4、伊藤一隆 年詳不祥 5、横井春野 年詳不祥 ※以上の人物については、西洋人名よみかた辞典、現代日本執筆者大辞典、日本著者名、人名典拠録(いずれも、日外アソシエーツ)で調べた。また、年詳不祥の人物については、以上のどの辞典にも掲載されてなかった。
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